どうぞあの世で しあわせに!⑨
男は、すぐに戻って来た。彼が私の前に立つと、部屋の様子がガラリと変わった。さっきまで男がいた場所に、大きなホワイトボードが現れた。振り返ると、たくさんの座席が並んでいる。私達は、最前列の座席のすぐそばに立っていた。
「教室かな、懐かしいね」
男は笑いながら言った。いつの間にか、仕立ての良い紺色のスーツに着替えていて、スタイルの良さが引き立って見えた。
「お待たせ」
ホワイトボードの前に立つ彼は、まるで若い教授みたいだった。私は、席に着こうか迷ったが、結局やめて、そのまま立っていた。
「今すぐ好きに動いてくれて構わないけど、ここを出る時に、このノートを持って行ってね。これは、言うなれば、予約帳みたいなもんだね。死んだ後、自分に会いに来て欲しいと思う人がいたら、その人のノートに、自分の名前を書いておくんだよ。でも別に、これは義務じゃないんだ。全然覚えのない人の名前が書いてあることも多いしさ、律儀に全員に会うことはない。あんたは美人だから特に、そういう人間の名前がいっぱい書いてありそうだしね」
「そんなことはないと思います。けど……」
家族はともかくとして、私に会いに来て欲しい人間なんているのだろうか? 一刻も早く、ノートの開きたかった。
「嫌ならいいんだけど……もし構わなければ、俺にも見せてくれないかな?」
もじもじと、遠慮がちにしている彼に、嫌だと言う気になれなかった。どうせ生前の悪事は、逐一知られている。今更、秘密にしておきたいことなど、何も無かった。
私は彼の横に立ち、赤い、ビロードに似た生地の表紙のノートをそっと開いた。
「ああ、ありがとう。これは、俺達が勝手に見ちゃいけないことになってるんだ。見せてくれて、嬉しいよ」
単なる興味本位だろうか? 人間は、死後もずっと、好奇心を捨て切れない生き物なのかもしれない。
遠慮などせず、堂々と見て欲しい。そう思い、私は勢い良くページをめくった。
初めのページは、たくさんの人達の名前で埋まっていた。
「いや、想像以上だなあ!」
嬉しそうに、大きな声を出した男は、興奮して、私の手からノートを取り上げた。何ページかめくってから、呆れたように言った。
「凄いね、モテるんだなぁ、あんたは。おいおい、最後のページまで埋まっちまってるんじゃないだろうな? もう……キリが無いや」
男は早々に、興味を失い掛けている。もう帰ると言われると困るので、私は慌てて訊ねた。
「私の罪を隠し通してくれた人の名前は、どうしたら分かるんですか?」
「ああ、それはね、こうするといいんだ」
男は、ノートの後ろの方の、何も書かれていないページを開いて、また私に返した。そこは、他に比べて、際立って白かった。それから彼は、ジャケットの胸ポケットに差してあった、高級そうな万年筆のキャップを外し、私に手渡して言った。
「この一番上の行に、こう書いてみて。『私を守ってくれた人』」
何だか子供騙しみたいだと思ったが、素直に従った。男に借りた万年筆は、太さの割にしっくり手に馴染んで、結構、綺麗な字が書けた。
お礼を言って万年筆を返すと、男はノートから目を離さずに、黙って受け取った。張本人の私より、真剣な眼差しを注いでいるように見えた。
書いた字の下に、次々に名前が浮き出して来た。
だが、見覚え、聞き覚えのある名前は、一つも出て来ない。きっと、顔を見れば分かるだろう。名前も満足に知らない人達が、と思うと、胸が痛くなった。
この人達は全員、もう死んでいるのだ。しみじみと、時の流れを感じた。
十二番目、最後の名前が完全に浮き出すと同時に、私は、男を押しのけるように、身を乗り出していた。
「まさか」
それ以上、言葉が続かず、代わりに、嗚咽が漏れた。
最後の人物の名前に、名字は無かった。
ただ、イマニュエル、と書かれていた。
それは、私の息子の名前だった。
<続き>