小説版ミッサーシュミット

文章を書くのが大好きなミッサーシュミットの小説の数々♡

どうぞあの世で しあわせに!⑩ 《完結》

「息子の、死因は、何ですか?」

 恐ろしく明瞭な発音で、私は男に訊ねた。

「ただの老衰。凄く楽に死ねたみたいだよ。家族に看取られながらさ」

「幸せだったのでしょうか?」

「うん、多分ね」

「夫は?」

「ノートに名前が無いかな?」

 男に言われ、急いでページを遡る。見覚えのある、角ばった字が、すぐに見付かった。嬉しいことに、彼もまた、死んだ後、私に会いたいと思ってくれている。

 何だ。私という人間は、誰よりも、幸せじゃないか。

 一番愛した人達に、同じように、愛されている。

 何があっても、必死で生きることには、ちゃんと意味があったのだ。

「君の母さんは昔、どこで何やってたの? って、さっき、どこかのおじさんに訊かれたよ」

 息子が一人で小学校に通うようになってから、何度かこういった質問を、家に帰る途中の彼に浴びせる人間が現れ始めた。私はその度に、心を奮い立たせて息子に笑い掛け、

「おかしな人達ね。私を誰か、有名な人と勘違いしてるのかな?」

と、冗談めかした答え方をしていた。息子もそれに同意して、

「きっとそうだよ! 母さんは綺麗だから」

と、いつも笑顔を返してくれた。幸い、息子自身が私に、彼らと同じ質問をすることは、ただの一度も無かった。

 本当は、幼い頃に既に、何かを感じ取っていたのだろう。だから彼は、私を悲しませない為に、必死で嘘を吐き続けてくれたのだ。何も知らない無邪気な顔の裏に、大人びた、険しい表情が隠されていたのだと考えただけで、思わず肩が震え、涙が次々と頬を滴り落ちた。

「何だ、また泣いてるの? 生前は強い人だったみたいけど、あんた、死んでから、涙脆くなったんだね。俺は、これで失礼するよ。じゃあ、またね!」

 男は、陽気に別れの挨拶をして、教室の出入り口に向かった。扉を開けながら私の方を振り返り、右手を上げて、にっこり微笑んだ。涙を流しながら、私も手を上げて応えた。ありがとう、と心の中で呟くと、どう致しまして、という男の声が、耳の中に響いた。

 男が立ち去ってからも、私はずっと泣き続けていた。ここでは幾らでも泣いていいのだと思うと、なかなか涙が止まらなかった。

 ノートを胸に抱いたまま、私は、放心したように、虚空を見詰めた。

 人々に会いに行くのは、もう少し、泣いた後にしようと思った。

 この教室から、どこかへ移動するにはどうすればいいのか考えていた。突然、遠慮がちに扉をノックする音が聞こえた。驚いてそちらに顔を向けると、静かに扉が開いた。大人しそうな、若い男が教室に足を踏み入れた。

 男は、ホワイトボードの前まで歩を進めた。彼の動きに合わせるように、私は急いで、最前列の席に就いた。まるで、教師と生徒のようだった。

 いつの間にか現れた教卓の上に、持って来た何冊かの分厚いテキストを置いてから、男は椅子に腰掛けた。そして、まだ静かに泣いている私に、優しく微笑みかけてくれた。

「今、幸せ?」

 その声には、聞き覚えがあった。それは、法廷の男のものに違いなかった。私が驚いて彼を見詰めると、人を食ったような笑顔を返して、楽しそうに言った。

「何で違う人間になってるか、知りたい?」

 素直に頷くと、彼は嬉しそうに答えた。

「単なる気分転換。仕事が一つ終わるごとに、何となく気持ちも入れ替えたくて。長い間この世界にいるとさ、元々の姿に、そんなに執着も無くなるんだよ」

「今の姿は、誰か、縁の有る方に因んだものですか?」

 不意に口から出た問いに、彼は虚を突かれたようだった。一瞬、真顔になり、降参したように言った。

「これ、大人になった、息子の姿なんだ。俺、息子が小さい頃に、死んじゃったからね。ここに息子が来た時、十分一緒に居る時間を作ってくれたから、寂しさは無いけど。彼はもう、二回生まれ変わってるよ。二回目は、あんたも、良く知ってる人だった」

 勢い良く立ち上がると、その弾みで机が揺れ、ノートが床に落ちた。

 男は椅子から立ち上がり、私の席の前まで来て、ノートを拾い上げ、ページを捲った。

 男が一つの名前を指差した。想像した通り、それは、私の息子だった。

 私の目から、再び涙が、勢いよく流れ落ちた。胸のポケットチーフを取り出して、手渡してくれながら、男が言った。

「死んだ後も、不思議なご縁って、あるんだよ。とはいえ、こんな立場にいると、そんな、極めて稀な例って訳じゃないけど、やっぱり、親近感は覚えるよね」

 照れ臭そうに笑う彼を見て、急に、こう思った。

 会いたい人に会った後、私もここに留まって、彼と、長い時間を共にするのも、悪くない、と。

 不実だとも、不謹慎だとも思わない。ただそれを、彼が受け入れてくれるかだけが、問題だった。

 勇気を出して、決意を口にしようとする私を、彼が手振りで制した。勢いを削がれ、体を硬直させた私に、真剣な眼差しで、彼が訊ねた。

「あんたのこと、待っていいかな?」

 輝きを増した彼の瞳の中に、今までとは比べ物にならないほど美しい自分が写っていると思うだけで、頭の芯が痺れたような、甘美な気分を味わうことが出来た。

 私は、わななく唇で、穏やかに、彼に答えを告げた。

 

                                    【完】