休日と犬の睡眠薬④
私に背中を向けて、ディスクをケースにしまいながら、彼がぽつりと言った。
「シャンパン、飲みたくなった」
映画の中で、ヒロインが優雅な手つきで、グラスを口に運んでいたのを思い出す。確かに、とても美味しそうだった。でも、雨の中を、買いに行くのは嫌だった。
返事をしない私を振り返り、彼が訊ねた。
「シャンパン、飲む?」
「え、ここにあるの?」
「特に上等じゃないヤツなら、何本かあるよ。クリスマス用のラベルの、小さいボトルだけどね」
「クリスマスって、四ヶ月も前じゃない」
「会社の忘年会やった店が、持ち帰りして良いって言うから。いっぱい貰って来た。重いし、転ぶと危険だしで、帰りが大変だったけど、酔ってたから」
「今日まで、私に内緒で、一人で楽しんでたんだ」
拗ねた振りをして言うと、ごめんごめんと謝りながら、彼は明るく笑った。
彼はお酒が大好きで、しかも、相当強い。最初のデートの時、何杯飲んでも全く平気そうな彼を見て、殆ど飲まなかった、私の方が酔っ払ってしまった。最近は、彼の影響で、少しお酒が強くなって来た。
一人でも飲む気でいる彼は、もう一度、訊いてくれた。
「どうする?」
そういう彼の足は、既にキッチンに向かっている。私は少し考えた。
外は暗くなって来たし、飲み始めるには、丁度いい時間だ。スパークリングワインなら飲んだことがあるが、シャンパンはまだ無い。だったら。
「私も飲む!」
意気込んで答えると、彼は嬉しそうな顔をした。
冷蔵庫に材料が無い訳ではないが、何か作るのは面倒臭い。二人とも、結構お腹が空いていたので、ピザのデリバリーを頼むことにした。
「自分は雨が嫌いな癖に、他人には容赦無いよね」
私がそう言うと、電話を切ったばかりの彼は、困った顔をして答えた。
「じゃあもう一回電話して、オーダー取り消して貰う?」
「駄目だよ!」
驚いて叫ぶと、彼は、
「冗談だよ」
と大声で笑い、キッチンに行く途中で、壁にある照明のスイッチを入れた。
「ピザが届く前に少し飲もうよ」
彼がそう言ってキッチンから持って来たシャンパンは、想像していたのとは、随分違っていた。コーラの瓶くらいのボトルが二本。朱色がかった赤いラベルに、白字で大きく書かれているのは、多分フランス語だろう。銘柄の上に、鮮やかな緑色の、クリスマスリースが描かれていた。全体を覆うラベルのせいで、中は見えなかった。
そう言えば前に、シャンパンをストローで飲むのが流行っていると、何かの本で読んだことがある。それを話すと、彼もそのことを知っていた。
「でも、グラスで飲む方が美味しいと思う」
リビングにある立派な木製のボードから、シャンパングラスを二つ取り出して、私の元に戻ってきた。全く、ここには何でも揃っている。
「このグラス、使うの初めてだよ」
差し出されたグラスを、手が滑らないよう気を付けながら、細い柄にしっかりと指を掛けて、慎重に受け取った。
グラスを目の高さまで上げ、色んな角度から眺める。薄くて繊細で、とても軽い。飲み口の、ちょっと下の部分を優しく爪で弾くと、音叉のような、細かい音が、鼓膜が僅かに震わせた。
グラスの観察をなかなか止めない私に、彼がからかうように言った。
「お注ぎ致しましょう、お嬢様」
思わず吹き出してしまった後、急に、済ました顔をしてみせた。映画のヒロインを真似た、女らしい仕草で、少し尊大に、グラスを差し出した。
シャンパンが、ゆっくりと注がれていく。ジンのように透明ではないということを、生まれて初めて知った。白黒映画の中よりも、ずっと美味しそうに見えた。
柔らかなラインを描く、優美なグラスの中。宝石のような、淡い黄金色。ほのかに泡立つ液体は、溜息が出るほど美しかった。このままずっと眺めていたい、と思ってしまうほどに。
静かにグラスを合わせ、そっと口に運ぶ。舌の上に乗ったシャンパンは、とてもいい香りで、信じられないほど優しい味がした。飲むのが勿体無い、なんていう考えは吹っ飛んでしまった。
私は夢中で、グラスの中の宝石を飲み干した。瞬く間に二本のボトルが空き、彼は再びキッチンから、同じボトルを二本持って戻って来た。
「これで終わりだよ」
彼の言葉を聞いて残念な気持ちがした。それでも、酔いはもう随分回っていた。